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【独立プロフェッショナル】=専門家への道

専門家「プロフェッショナルは道を究める」1/3

こんにちは、しぎはらです。

昨年末から始まった大きなプロジェクトが一段落したので
一ヶ月もの長い間
「Q&Aやコラム」をお休みさせて頂き
たっぷりと充電期間を取りました。

「独立プロフェッショナル」として仕事を始めて
今年でちょうど20年。

その間、全く仕事をしない
「子育ての為の専業主婦期間」が約5年間ありましたが、
振返ってみると、年々職域がってきています。

デザイナーとして、始めてスタートラインに立った20代前半。

働く事で業界の仕組み・職種を知り
独立に向けて、コンサルタントファームで激務をこなした20代後半。

独立プロフェッショナルとして、数社と業務請負契約を交わし、
いくつものブランドプロデュースに関わった30代。

社会人として働き始めてから
ずっと無我夢中で走り続けていた私の前に
小さな体で立ちはだかった娘の一言で
思いがけない急ブレーキ&停止をし
全ての仕事を辞めてしまった38歳。

新米専業主婦としてスタートし
家族と真正面からキチント向き合い
子育てと同時に人間力を鍛えられた5年間。

これまでの仕事を基本とした
「育成」という新しい扉を開く事に決め
再びの仕事復帰した43歳。

「ブランドプロデュース業」に加え
「講師」「教師」「キャリアアドバイザー」「コンサルタント」と
経験を重ねながら、職域が広がっています。

そして、昨年からは、「描く」から「書く」とい
新しい世界にトライ!

こんな風に
加齢と共に、仕事の世界を広げて行く事が出来、
常に学びながら、それを仕事に活かし
ステップアップを続ける事が出来るのは
「雇わない・雇われない」という働き方である
「独立プロフェッショナル」という道を
選んだからこそ!なのだと思うのです。

       ★続きは、2/3で。

専門家「プロフェッショナルは道を究める」2/3

こんにちは、しぎはらです。

「独立プロフェッショナル」という道を
選んだからこそ!なのだと思う。
            *1/3からの続きです。

「職種」で自分の「キャリア」を計るのではなく
「専門性を深く掘り下げ、仕事を随行するための
新たな学び」で
「自身のキャリを育てていく」という事でもありました。

それは、
「好きな仕事を生涯続けて行きたい」という
高校時代の夢からのスタートでもありました。

好きな仕事につく事が出来、
社会人とし、仕事をする事で
はじめてビジネス社会の暗黙のルールや
仕組みを理解した時に
私は、新たな不安を抱いたのです。

なぜなら、女性である事が
ビジネス社会で不利に働くという側面を
まのあたりにしたからです。

多くの女性は
「将来は、結婚し家庭を持ち、子供を産み育てる」
という夢をもっていると思います。
でも、私がビジネス社会でまのあたりにした事は
出産の為の育児休業・復帰後のポストに対する
会社側のシビアな対応でした。

それまで築いてきたポストが
出産〜育児休暇中に失われてしまった
「尊敬すべき女性デザイナー」や、
「有能な女性マーチャンダイザー」が
復帰後のポスト交渉に対する会社側の回答に失望して
退職されてしまった事。

つまり、雇用される立場である以上
【自分の人生の選択肢や、仕事内容の希望すら
思うように通らない】という現実でした。

そのような現実に理不尽な思いと
遺憾の意を抱きつつ、私は
【子を産み育て、好きな仕事を生涯続けていく為には
 どういう働き方をしたらいいのか?】を
徹底的に考え始めたのです。     

              ★続きは3/3で。

「離婚・子育て」も恐くない!賢いキャリアとは?

こんにちは、しぎはらです。

【手に職を持つ】という言葉
皆さんも一度は耳にした事がありませんか?

私事ですが、これまでの人生において
「離婚も子育ても経験」しましたが
「生活に困る」という事は、一度もありませんでした。

何故なら
【これからの時代は、女も手に職が必用】
という母の教えが
現在に至る今日迄、私をずっと
支えてきてくれたからなのだと思うのです。

私は、子供の頃から
「商家の長女」として育った母から
『これからの世の中は、すごいスピードで変わっていくのよ。
生きて行くためには、女性でも何かあった時のために
経済力を持った人間にならなければ。』と
ずっと教えられてきたからです。

何故なら、母は16歳の時に実父を亡くし
家業である「和菓子工場」を切り盛りする事になり
医者を目指していたものの断念。
その後の第2次世界大戦によって
一夜にして、金銭の価値が暴落し
裕福だった生活が困窮し、戦時中・戦後の混乱の中
二人の小さな弟と、実母の生活費を稼ぐという苦労を
身を持って体験したからです。

戦後、家族を養う為に
「印鑑」を彫る技術を習得し
28歳で「印鑑業」として独立。
復興の好景気の中、当時の大手菓子メーカーの
仕事を一手に引き受け
結婚後も、お手伝いさんを使いながら
私と姉を育て
その資金を元にアパート経営に乗り出しました。

当時は、田舎から都会への「出稼ぎ人口」が急増していた事もあり
アパート経営の波に乗ったのです。

その母からの教えは二つ。

●経済動向から目を離さず
「需要と供給のバランス」に注力し
そこからビジネスのヒントを得なさい!
【いつの世も「足りないもの」に仕事とお金が集中する】

●常に学び続ける事。
 【どんな知識も書物で学べる。必用な時は臆せず果敢に学びなさい】

今から40年も前の、母の教えだったのです。
☆続きは次回。

「離婚・子育て」も恐くない!「手に職」への道

こんにちは、しぎはらです。

私のキャリアのスタートは、 1970年代後半。
松下通信工業(現パナソニックモバイルコミュニケーションズ)の
研究開発部勤務。

研究開発部では図面を引く仕事に従事し
それ自体は面白かったのですが
社会構造や仕組みを体験する事で
『これが日本の社会か…』と将来に不安を抱きました。

なぜなら、当時の一般企業は
「寿退職=女性の花道」というのが暗黙の了解でしたので、
企業の募集・採用から配置
昇進、教育訓練、退職に迄も
女性に対する差別がありました。

さらに、人と違う色のカーディガンを着ているだけで怒られたり
12時ぴったりに食堂へ行くと混雑しているので
10分ずらして行くようにしたら
『生意気!』と言われたり(笑)

私は高校の「デザイン科」で
『人と同じ視点で考えるな! 
それではデザイナーとしての存在価値がない』
と教育されてきた人間ですから
合うわけがありません。

『社内結婚するのが当然』
『結婚したら社宅に入り、家電も自社製品。
社員でいれば、一生安泰』
という雰囲気に疑問を抱いてもいました。

そんな時代の中
いち早く【女性が活躍し、脚光を浴びていた!】のが
ファッション業界だったのです。

「スタイリスト」・「デザイナー」といった
【自身の特化した専門性・名前を武器】に
「フリー(独立)」として活躍する女性達。

次々と創刊されていくファッション誌の中で
新しい時代の息吹と共に彼女達の活躍が
頻繁に紹介されていました。

それこそが、私の求めていた「手に職をつける」
=【ある分野で、食べていけるだけの技術や知識を身につける】
理想の働き方だったのです。

ファッション業界でなら
【新時代の、女性の働き方の理想が、きっと実現できる!】
20代の今後、私の歩むべき道が
鮮明に浮かびました。

☆続きをお楽しみに。

「離婚・子育て」も恐くない!「強みを生かす仕事」

こんにちは、しぎはらです。

『会社を辞めてデザイナーになる!』
『デザイナーで食べていける人間なんて
ほんの一握りなのよ!』

【手に職=国家資格】と考えていた母には
なかなか理解されませんでした。

研究開発部での仕事は
【機械工学設計と製図※現在のCAD】
このスキルを磨き続ける事も可能でしたが、
私の描いていた「新しい働き方」への可能性は
見出す事が出来ませんでした。

でも、ファッション業界であれば

1.【これまでの自身の学んできたデザイン】を軸にできる!

2.【今後伸びていく業界=求人需要が必ずある】
 今後の伸びが期待できる労働市場!

3.自身のスキルに更に付加価値をつけて
 【市場価値の高い自分になれる】可能性が高い!

これらを、現実化できるという答えに至ったのです。

2年間お世話になった会社を退職し、
アパレル会社で
デザイナー見習いとして働き始めました。

私はデザインは描けたのですが
「型紙」を引くことができませんでしたので、
先輩デザイナーに指導を受けていました。

会社では、週に一回
企画部長にデザインを提出することになっていたのですが
あるとき、私のデザインが
先輩に、そのまま盗まれてしまいました。
 
『型紙をひけない限り同じ事は起こる。』
この事をきっかけに
会社から一番近い「服飾専門校」を探し
仕事後に夜間クラスで
「型紙=パターンメーキング」を学びました。

今考えると
「デザインを盗まれた体験」は
「型紙という基本を学ぶ」きっかけでもあったのですから
会社というのは、自分を鍛えてくれる場でもあり
学びの場であると思います。

その後、別のアパレルに転職。
デザイナーとして「一番大切な事を学ぶ」という
始めての【苦い経験と成功】の、両方を体験する事に。

☆続きは次回。

「離婚・子育て」も恐くない!【起業への道程】

こんにちは、鴫原です。(☆続きです)
 
ブランドの立ち上げを失敗する、という経験をした事で
「売れるブランド・愛されるブランドとは何か?」
について、必死で学び、考えました。

そしてワンマイルウェアの『カラフルスウェット』
というブランドを誕生させました。
「上下揃い」という業界の常識を覆し「上下別々に選んでコーディネート」
できるようにしたこのブランドは
『こんな服を待っていた・欲しかった!』
という消費者の心を掴み、大ヒットしました。

ただ自分が着たい服をつくるのではなく
・誰がどんなシチュエーションで着る服なのか
・その服をつくって誰が喜んでくれるのか

顧客相手のビジネスの原点でもある真理に
自身の仕事の失敗を通じ、辿り着く事が出来たのです。
この喜びが、次への大きなステップになりました。

「更に深く、ブランドビジネスを学びたい!」

そんな時、存在を知ったのが
コレクション情報の解説・ファッション業界向けのコンサルティングを行い
ファッション業界では最高峰といわれるコンサルティング会社
バンタンデザイングループの「織部企画」でした。

そこで、アポを入れ『どうしたら会社に入れてもらえますか?』
とお願いに行ったのです。

幸運な事に『心意気が気に入った』と
嘱託でしたが、入社をする事に。
 
ここでは情報収集〜マーケティング・ビジネスモデルの構築
契約会社のニーズに合わせたコンサルティングのコツなど
「ブランドビジネス」の真髄と、コンサルタントとして必要な
多くの事を学ばせて頂きました。

この時期はバブル景気の予兆を孕み
「ファッション=魅せる」という概念が
服飾以外にも広がろうとしていた時代でした。

【時代の変化をチャンスに変える!】

コンサルティング業で磨きがかかった私の目には
次に進むべき道が、鮮明に見えて始めていたのです。

   ☆続く。

「離婚・子育て」も恐くない【自力で扉を開く!】

こんにちは、しぎはらです。

【時代の変化をチャンスに変える!】

という事実を、その企業は既に現実化し始めていました。

【いま、その企業に行けば
自分が望んでいた仕事の在りかたが体験出来
将来へのスキルに磨きがかかる!】

「学びの為には必要。どうしても入りたい!」
という情熱を胸に、社長に直接アポを取り
『お給料は要りません。ぜひ、仕事を学ばせてください』
とお願いに行きました。

その企業とは、坂井直樹氏が率いる
「コンセプトワークを中心に据えたウォータースタジオ」。
1987年設立、時代の先陣を切り
コンセプトデザインを手がけた「日産Be−1」が大ヒット。
その後も、次々にコンセプターとして
既成の概念にとらわれない斬新なデザインのプロダクトを手がける
魅力的な会社でした。

こちらの会社も、OKを下さったので、
嘱託で働いていた「織部企画」の社長に事情を話
『仕事は契約にしてあげるから、うちと向こうと半分ずつ行けばいいよ』という
寛大な配慮を頂き、両方で仕事をするこ事に。

コンサルタントの仕事は、クライアントのケアさえしっかりしていれば
毎日通わなくても問題はありません。

両社にはそれぞれ週に3回出勤
ウォータースタジオでは坂井直樹氏に師事し
「リカちゃん人形のドレスや小物のデザイン開発」
「ワコールの新規ブランド開発」等
ファッション業界に限らず
多くのブランドの立ち上げに拘わらせて頂く事が出来たのです。
 
起業を目標としていた30歳までの4年間は
仕事が楽しく、夢中になり
日々があっという間に流れていったのです。

【あきらめずに、行動する事で道は開ける!】

20代の仕事の日々で、私が実践し、学んだ事は
「揺るぎない信念と情熱=思いをカタチにする行動力」こそが
道を開くという事でした。                    ☆続く。